一瓶塚稲荷神社に続き、すぐ近くにある「唐沢山神社」にお邪魔しました。
唐沢山神社は、唐沢城址にあり、藤原秀郷公をお祀りしている神社です。
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唐沢山山頂を目指す途中に一の鳥居らしき鳥居がありました。
この参道はハイキングコースのようです。
駐車場はもっと上です。
唐沢山レストハウスというお食事処があり、その前が駐車場です。
手打ちそば、ソースかつ丼、若鶏の唐揚げ、川海老の唐揚げ、
カレーライス、ところ天、生姜焼き定食、カツ重といろいろそろってます。
唐沢山神社の案内板を見ると、視線を感じました。
案内板の屋根の下に猫が2匹(^_^)
こっちでもひなたぼっこ
向こうにも
最後にはスリスリしに来ました。
猫だらけです^^
駐車場から境内までは10分程度歩きます。
天狗岩の看板
物見櫓のあったところで南面に出た岩がちょうど天狗の鼻の様で
あったため、この名がある。とのこと。
見えなくはないかな~
鳥居が見えてきました
大きな石がありました。
「八台龍王神 縁起」 長いですが・・・
唐沢山の御神体であらせられまする藤原秀郷公が京に架る勢多大橋を渡る時、橋の中央に息も絶え絶えの大蛇が横たわり、京の人々は恐れおののき、尺遠巻きに見ているだけでしたが、公は何事もないように大蛇を跨ぎ橋を渡り終えました。
それを見ていた従者が此の人こそ真の勇者と公を呼び止め助けを請いました。大蛇は龍神様の化身でムカデの毒にやられて敵を討って欲しいのですと公を龍宮城へと招きました。
夜になると黒き山が動き多くの松明をかざしてこちらに向かってくるのが見え、良く見ると、大きな邪悪な目がらんらんと恐ろしく輝き、龍宮城へと襲いかかってきたのは大ムカデの化け物でした。
公は弓矢の名手でしたので、3本の銅矢を取り、一の矢を番え敵の眉間の中央に的を絞り放ちましたが、矢はカチンと跳ね返りました。次いで二の矢を撃ちましたが同じように跳ね返されました。
公は最後の三本目の矢を「神よ、御照覧あれ」と矢じりにツバキを塗り全く同じ場所を狙い放ったところ、矢は眉間より奥深く射抜き、ムカデはどうと膝まつき息絶えました。
これ以降龍神様は公の傍らに仕え、数々の端象を表し、今日に至り唐沢山に鎮座まします。
龍神様は家族で行動する処から、家族思いであり、家族愛にあふれ、敬愛と恋人同士の深い愛の成就の神、登竜門如く入学、入社は元より出世を叶えます。
秀郷公の弓矢の名人の誉れから狙った的を外さない事から、本命の恋人の心を射たり将来の夢と希望を當的出来る神様であります。
この二神様の力を得る為にここへお参りし祈って「願矢」を奉納すれば叶う事です。
要約すると、
学業成就、合格祈願、出世、縁結びに絶大な効果ということですね。
ブログを書きながら、「願矢」を買わなかったことを後悔^^
のぼりに「由紀さおり」の文字を発見!
この境内社の案内はありませんでしたが、「龍神宮」のようです。
「大炊の井」
築城のさい厳島大明神に祈請をしその霊夢により
掘ると水がこんこんと湧き出たとのことである。
深さ9m直径8mあり、今日まで水が枯れたことがない。とのこと。
龍神さんはここにいらっしゃるのでしょうか。
巨大な井戸ですが、お水がわき出ている気配はありませんでした。
少し歩くと「神橋」がありました。
旧名曳橋と云い四つ目堀切に架けられた吊り橋にて
架撤自在のものなりと伝えられる。
大正15年、皇太子殿下御成婚記念として地元高齢者の寄進による。
四つ目掘りは橋の下のカラ堀で、外敵に備えて橋が上がる仕組み(曳橋)
になっていたようです。
もともと、この神社は唐沢山城跡にあるのでそういうことなんですね。
神橋の左には、明治天皇御製
「あさみどり 澄みわたりなる大空の 広きをおのが 心ともなが」
ちょっと斜面を登ったところに「和合稲荷神社」がありました。
御祭神:倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
五穀豊穣、商売繁盛の稲荷神です。
参道に戻って、緩やかな階段を登って行きます。
と思ったら、一番手前の赤いのぼりに「舟木一夫」の文字を発見!
この神社は、演歌歌手がお参りするところなのでしょうか。
社務所前に出ました。
当神社は御祭神秀郷公により平安時代中頃に築城された
本丸跡に建てられております。「むかで退治」の伝説や「天慶の乱」の鎮定等から
武勇に優れていたことが知られています。又この乱の鎮定の功により鎮守府将軍に
任ぜられましあt。その後7百年の間多少の変遷はありましたが江戸時代初期の
山城禁止令により廃城となりました。明治16年一族旧臣等が公の遺徳を偲び
唐沢山神社を立てました。
さらに階段を上がります
手水舎
やっと神門が見えてきました。
城を攻めるのは大変^^
明治16年鎮座 御祭神贈正二位藤原秀郷公
元別格官弊社との案内版
素木に「唐沢山神社」と浮き彫りになっています。
拝殿
狛犬はかなり新しい感じです
奥に本殿が見えます。
本殿の柱で猫が爪を研いでました^^
本殿をズームアップ
蛇の絵が可愛らしいです。萌え系絵馬ですね^^
裏に回るとこんな感じ
こちらは裏口の鳥居
神門横の絵馬
御神木と神門
神社の境内は本丸の跡地ですが、周りの石の柵は当時のままだそうです。
神門裏には献酒された樽。開華は聞いたことがあります。
元来た道を戻り
社務所へ
平日ですがいらっしゃるということは、常駐しているようですね。
この日も、何組かお参りされる方がいらっしゃいました。
矢が売ってます^^
御守りの種類も豊富です。
東照宮の鳴龍(薬師堂)で宣伝していた、良い音色の鈴と同じタイプもありました^^
御朱印
唐沢山から見た佐野市内の景色
藤原秀郷公は、宇都宮の二荒山神社や、
伊豆の神社でもその名前を見ることがあり、
一度ご縁ができると次へとつながっているなぁと感じました。
神道の神様がいる神社という感じはしませんでしたが、
自然霊の神様はいらっしゃるような雰囲気です。
猫が多いのも、ほのぼのとしていていい感じでした。
山の反対側にはキャンプ場もあって、家族連れでハイキングするにも向いてます。
現在は、北関東道が唐沢山の真下を通っているのですが、
不思議な感じがしました。
【唐沢山神社】
明治十三年十月、藤原秀郷公の子孫佐野氏及び旧臣らが、秀郷公の遺徳を称え公の御霊を祀る神社創立のため東明会を組織する。その後明治十六年十月、東明会の尽力により唐澤山古城本丸跡地に当神社が創建鎮座し、明治二十三年十二月一日、別格官幣社(旧社格)に列せられる。
御祭神の藤原秀郷公(生歿年不詳、一説には正暦二年九月廿五日薨去、御寿壱百壱歳とある。)は、平安時代初期の武士で、俗称田原藤太(俵太)とも呼ばれ今より一千年の昔天慶の乱で平将門の討伐等、功績を上げた。
秀郷公は、延長五年(九二七)に下野國(今の栃木県)の警察にあたる押領使に任ぜられ父祖伝来のこの地に参られ、唐澤山に城を築き居城とされた。この後、平将門の乱(天慶二年《九三九年》頃)がおこり、その征伐のため朝廷より遣わされた藤原忠文の軍が到着する前に公は平貞盛と協力して将門を討ち取った(天慶の乱、天慶三年《九四〇年二月十四日》に収束)。この功績により押領使から下野守(栃木県の長官)に任ぜられ、さらに武蔵守も兼任するようになり朝廷より土地一功田をあたえられ、その後代々子孫が城主となりこの地を治めてきた。その他に、秀郷公に関しては「三井寺物語」にあるような「蜈蚣(むかで)退治」等の様々な伝説がある。
唐沢山神社
栃木県佐野市富士町1409
TEL:0283-24-1138
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